SSブログ

JAPAN - UK - CHINA - MALTA [Shin Nishimura diary]

01.jpg



僕はそれまで慣れ親しみ7年近くも住みついていた上海から日本へ戻ってきたのは、2002年の春だった。帰国理由は、今まで様々な場所で言ってきたのだけれども、警察によるナイトクラブ弾圧が一番の理由。0時になると数十人の警察が平気で銃や警棒を持ち、クラブに一方的に根拠もなく閉め出していくのが日常茶飯事となったからだ。もうパーティーも続けてらんないし、そんな事が数ヶ月も続き、もう帰国しないと食べていけなくなる。政府はいとも簡単に普通に楽しく暮している人間の自由を奪うのか…
と、そこで僕は帰国を決意した。

日本帰国は9年振りと言う事で、慣れない日本生活が不安ながらもスタートし、僕は上海から連れて
帰ってきた愛犬デカと共に上京、桜新町のアパートを借りた。


そして、卓球さんが声をかけてくれたSterneとWIRE02で僕の日本での活動が始まった。

02.jpg

それまで北京在住日本人のKIKOさんと上海と北京の2都市で行っていた、中国初のテクノパーティー"PLUS上海 & 北京" を東京でもできたらと思い、Maydayで出会った初期PLUSメンバーのShigeさんと出会い、梶君を紹介してもらい、レギュラーパーティーとして第一回目のPLUS TOKYO@ Yellowが実現した。向こうに住んでいる時からYellowでDJする事は夢だったので、心から嬉しかったのは鮮明に記憶として残ってる。特にその時のゲストDJは、TechnasiaのAmilとSteve Rachmad。Steveとは今でもブラザーで心から敬愛するナイスガイだ。

05.jpg

そこから東京での活動も徐々に広がっていき、盟友DJ Miyabiと共にModuleでPhenomanaが始まり、大阪のRocketsではF.GotohとPhenomanを始め、またPLUS TOKYOがAirへ移り、Maniac Loveのアフターや静岡のFourでレギュラーをもらったり、今はPLUS UtsunomiyaをオーガナイズしてくれているK2さんというブラザーと出会った。それが僕の関わってオーガナイズしたレギュラーパーティーだ。Plus Tokyoは7年、Phenomanaも7年、Plus Utunomiyaは3年続いた(今後も継続)。

また、日本各地、北は北海道から南は沖縄までGuest DJとしてTOURを組んでもらって、各地で楽しいテクノパーティーはもちろんの事、様々な土地の美味しいものを食べさせてもらったり、温泉に連れてってもらったり…本当に優しく振る舞ってもらい、他に、近隣諸国のシンガポール、マレーシア、インドネシア(バリ島も)、台北、香港、ソウル等のアジアやヨーロッパでの活動も含め、日本人テクノDJとして、様々な国へ行けたのは素直に喜ばしい事だ。その他にも鮮明に残ってるパーティーは数えきれない程あるが、全部書き出すとなるともう大変すぎて、一個でも書き忘れたら「なんで僕の事書いてないんすかー」ってなっちゃうので、ご了承下さい。

東京に移住してきてからは、いろんな好きな場所があった。

一番通ったであろう場所は、渋谷のCISCO TECHNO店、Coqdo RecordsそしてTECHNIQUE。
だいたい週末前の木曜日や金曜日にレコ屋に行くと必ず誰かしらと会い、その後はお茶に行ったり、そのまま飲みに出かけ、週末は買った新譜をかけて、今思うと、まるでDJ LIFEの憧れそのままな生活だった。

レコ屋で言えば、名古屋のAfterhoursの大久保兄さんにも無理言ってよくレコードを送ってもらってた。しょっちゅうレコードのオーダーを電話でしてた。ジャケットデザイン、音圧、形、臭い、レコードの全てが大好きだった。

夏になるとDJ Mase君と頻繁に駒沢公園のプールに行ってた。泳いだ(浸かってた)後の小さい売店で、ビールや、アイスを食べるのが、日々都会でのストレス生活の中で唯一ノンビリできた時間だった。
特に僕は公園が好きで、世田谷公園、駒沢公園と林試の森がお気に入りだった。

なんだかんだ引越しも多く、桜新町→三宿→若林→戸越銀座と転々と引越しを繰り返した。それまでずっと世田谷の三茶中心だったので、戸越銀座に移り住んだ時は本当に新鮮で楽しかった。五反田も近かったし、蒲田方面、川崎方面、浅草方面、大崎からお台場と、いろんな所に行けたのが便利だった。

いろんな土地へ行き、いろんな場所でDJができ、東京で生きてこれたのは、思い出としては充分すぎだ。

03.jpg

08年の年の暮れ、僕の一番の親友が突然病気で亡くなった。突然の事でショックすぎて、立ち直るのにとても時間を要した。親友がこの世からいなくなった現実はとても寂しかった。思い出す度に、涙が溢れ出た。親友が逝去したと同時に、東京に住み始めてからずっと続けてたブログをやめた。彼の死を、別のくだらない文章で上塗りしたくなかった。彼の死と同時に僕は、一つ別の自分が生まれたからだ。それぐらい彼を親友だと感じていた。今でも毎年彼の命日には、島根県の津和野まで同級生のみんなでお墓参りに行っている。一生の間に決して多くはない、そう思える親友に出会えて凄く嬉しかった。

親友がなくなって49日が過ぎた頃、僕は今の奥さんにプロポーズをした。09年の4月にオランダ、スペインと回る3週間のツアー中に、僕の大好きな街ロンドンで結婚式を挙げさせてもらった。場所はテムズ川沿いにそびえ立つ大観覧車、ロンドンアイ。彼の誕生日に一番近い大安に、彼と出会ったUKの一番天に近い場所で、彼の死を偲び、また僕達の門出を、彼にもっと近くに見てもらいたかったからだ。彼はきっと僕の側で祝ってくれていたと思う。

そして、帰国後、謙太朗を授かった。

04.jpg

そしてその次の月、忘れもしない5月24日、9年連れ添った愛犬デカちゃんが、僕が2日間仕事で行った北京に滞在中に突然亡くなった。中国から連れて帰ってきたデカが、僕がたまたま2年振りに2日間訪れた中国に行った際に亡くなるなんて、変な話。しかもパグは西太后が愛した中国犬。ちょうどその日に故宮に行ってた。

06.jpg

その年の12月16日に、僕がたまたまた寄った3日間にロンドン滞在中、謙太朗が広尾の愛育病院で産声をあげた。予定日はだいぶと早まったが、元気に無事に産まれきてくれた。初めての出産に立ち会う事はできなかったが、母親から「おめでとう」の言葉と共に写メが送られてきた時は、嬉しくてずっと眺めていた。

クリスマスが近く、イルミネーションで彩られた雪の降るロンドンで、僕は父親としての第一歩を踏み出した。僕は、大雪が降る中、ロンドン在住の親友フクちゃんと早速ポートベローに奥さんと謙太朗のクリスマスプレゼントを買いに行ったほどに、心から嬉しかった。

07.jpg


そして帰国後、早々と向った病院のベッドで我が子を生で見た瞬間、心から幸せだと感じた。


首も据わり落ち着きを見せ始めた6月頃、僕達は子供にはたくさん自然のある場所で育って欲しいとの共通意見から、千葉の房総半島のニュータウンへ引越した。

家の前にはウォーキングをする公園もあり、近所には他にたくさんの公園がある街だった。車通りも少なく、そして海まで車で20分程度。空気も綺麗で、街から見る夕陽は格別、天気の良い日はカメラを持ってお気に入りのスポットに見に行く程、美しい夕暮れだった。

08.jpg

夏は毎日の様に海へ行き、帰りに茂原にある寿司屋で、銚子で採れたてのお寿司を食べて帰ってくるのが日課。また、それまでした事もなかった、庭の手入れや野菜を作ったり、毎日謙太朗を連れて公園に散歩に行ったり。

家の最寄り駅から品川まで電車で約1時間半。それでも緑が多く海も近い街に住める嬉しさから、
東京で仕事を終えてから帰ってくる時は、毎回わくわくするぐらい大好きな街だった。やっと持てた自分の家族、愛する息子、そして奥さんと頑張って買ったマイホーム。今まで様々な国で、また一見華やかに見える職業だとしても、人間関係等で苦労の方が多かった人生を歩んできてたので、この時が、生きてきた中で本当に一番幸せだった。友人と会うと、自分の幸せを伝えたいぐらい心から幸せに暮らしていた。



本当に本当に幸せな毎日だった…




24.jpg




一生忘れられぬ記憶になるであろう、3.11東日本大震災。

そして3.12の福島第一原発の水素爆発…あれから僕達、関東に住む人々の生活は一瞬にして180℃変わってしまった。

それからと言うものの、子供の被曝がとても怖く、実家に避難する生活も長く続いた。さすがにずっとは世話になれないので、何週間か千葉へ戻り、また何週間か実家に戻る生活が続いていた。千葉へ戻ると放射能が舞い、野菜も地産地消が故に、出荷停止となった汚染野菜を取り扱っている可能性は拭いきれなかった。魚も汚染水が放出された海ともさほど遠くない銚子港から流れてくる魚ばかり。身近に安全に食べられる物が近くからなくなった。最後まで関西に住む母親が野菜を送ってくれた。

謙太朗は放射能が降り注ぎ、外に出れない生活が始まり、「今までは毎日の様にお庭で遊んでたのになんで?」といった表情で、窓際で泣く日々が続いた。あと数十年は収束しない原発問題、そして安全な食の問題。「ただちに影響はない」と平気で嘘を繰り返す、我、日本国政府。守るべき立場の人間が、国民を守らなくなった事を目の当たりにした瞬間、僕は心から怯えた。

それはまるで、中国生活7年間で目の当たりにした、共産主義国家的情報統制だった。
正義感を持った少数のジャーナリストに指摘されたメルトダウンの可能性も政府はずっと「我々が知る限り、起きていない。」そして、数月後にメルトダウンを認めた。そして最悪のメルトスルー。

人間はこれを止められない。

産まれ育った母国が、この状況で平気で嘘をつく国家と変わり、まさに落ちぶれ海外からも信用がなくなった。僕は、あまりにもショックで、怖くて、嫌なニュースを受け入れるキャパシティーがなくなり、言葉を失った。津波で家や家族が目の前で流されいく中、必死に生き延びたにも関わらず、プライーベートのない体育館や避難所で集団生活を強いられ、大声で泣きたくても、ただ声を押し殺し黙々と泣いていた被災者の方々。政府が繰り返す20km圏内などと根拠のない政策を打ち出し、飯館村の様に黙々と被曝した生活を送りながらも、急に計画避難区域の対象だと振り回され、食べていく手段を奪われ自殺を選ぶしかなかった人々。そして、村ではプルトニウムが見つかった。もう2度と住めない。

そして神風と称された福島を食い止める為に駆り出され、死の恐怖と向かいながら、僕達を守ってくれ、今もまだ懸命に守ってくれている福島原発の作業員の方々。そこで亡くなった人は今でも毎月の様に報告されている。それでも政府や東電は放射線との因果関係はないと言う。子供の被曝線量は1mSvから20mSvに引上げられ、野菜や食べ物の数値もチェルノブイリ時の約50倍。数々の放射線量の数値も根拠無くあげられ、今までの数値はいったいなんだったんだ…と思うぐらい、政府の暴挙が続いている。たくさんの原発反対デモも行われているが、公安の不法逮捕等、政府の態度は改める気配すらない。はっきり言って気持ち悪い人間達だ。

僕達は殺人国家日本政府の暴挙の事実を受け入れられず、この国から出る事を決意した。明らかに間違った人間の暴挙に我慢する必要は全くなく、放射線食物を食べて生きていく必要等お国の為でもなんでもないのだ。今、日本、関東から出ないと、自分に与えられた手堅い仕事の都合で、ただ子供の被曝を黙認してるだけ。いくらそこで文句を言った所で、街を、村を除染しない限り、放射能の心配はなくならない。僕達は街を出る事、国を出る事が国に対する最大の抵抗だと考えた。

まず、国を出る決意と同時に生きて行くプライオリティーを先に考えた。仕事、場所、国、言語、子供、友人。様々な事を奥さんと何度も何度も話し合い、海外の友人、そして、僕の両親、奥さんのお母さん、たくさんの人と今後について話し合った。

その中から僕達が出した答えは、「安全で幸せだと思える国に住みたい」という考えだった。

様々なヨーロッパの国々の友人から「今すぐ避難してこい!日本と海外で流れてるニュースの内容が全く違う」「仕事は何とかしてやるから、すぐ日本から出るんだ」等、優しい言葉をもらい、それからずっとずっと今後の未来を考え、自分にあった環境を考えた結果、言語も英語でもある今回の移住先となるマルタがピったりとハマったのだ。

ロンドン、バルセロナ、ベルリン…他にも住みたい候補地はいろいろとあったが、大都市に住むと言う事は、経済に左右され、景気不景気だの悲しくなるような事件やニュースが起こりやすい。また人間が多く住む街と言うのは、例えば、今回の大震災で見たようにパニックになった時に、不自由が生じてくる。なので、まだ小さい謙太朗と住んで行く事を考えた時に、大都市に住むのはとりあえず避けてみようと思ったのだ。もちろん田舎は田舎での経済的な問題は抱えているのが現状だ。しかし、同じ不景気なのであれば、満員電車でギュウギュウに押しつぶされ、空気も汚く、渋滞はあちこちで、コンクリートで囲まれた都市よりも、豊かな緑があり海があり、子供が走り転げられる公園があり、川があり、綺麗な田園風景がある場所の方が、心がずっと豊かだと僕は思うからだ。

そして何よりもマルタ移住を決定的にしたのは、現在のPlus Recordsのパートナーでブラザーの、Andrew Grechとその仲間達の存在と、現地に住む日本人と話すと皆口々にしたのは「マルタに来て本当に幸せ」との言葉だった。僕は家族や友人と一緒にずっと幸せに生きていきたい。それが一番の優先順位だ。

決断後のある日、実家に帰った時に家族会議をした。僕は母親に
「僕は奥さんと謙太朗を守っていかなくちゃいけない。良ければマルタに一緒に来ないか?」
と涙ながらに誘った。

母親は涙をこらえ、
「私達はここまで生きてこれて十分幸せだった。だから、あなたは私達の事は気にせず、海外に言って奥さんと子供を守りなさい。だから日本に残ります。」
と言った。やっぱり母親の強さには勝てなかった。

それから数ヶ月経ち、震災前に卓球さんから誘ってもらった「WIRE11」が無事に8月27日に開催できる事を聞いた。同時にスペインのエージェントから9月3日にスペインでギグが入ったとの連絡もきた。その日に移住する日にちを決めた。心機一転の意味も込めて9月1日に出発する事にした。

その後は震災ショックを引きずるも、韓国はソウル、北京と上海や、AIRのユウヤが企画してくれた2年振りのPLUS TOKYO、Miyabiが用意してくれたSaloonでの7時間セット、そしてK2兄と回ったヨーロッパツアー。

いろんな楽しい事があった。

11.jpg


北京ではあまりにものショックで殆ど誰とも話せなかった事を憶えている。ネットを開けると日本の信じ難いニュースばかり。汚染水を海に垂れ流したり、海外プレス用の取材には、嘘しかつかない保安員に愛想を尽かし誰1人として外国人記者が来なかったり、見るだけで本当に辛かった。悲しくて、辛くて、メルトスルーを起した第一原発に解決策は何もなくて、何をどうあがいても、幸せに暮していた関東での生活から、マイホームを捨ててまで出る事しか道がなかった。

僕の移住を聞いたのか、日本を離れ暮していく自分に、たくさんの人から励ましのメールをもらった。
大阪で久々に会ったEnergy Daiから「逃げるんですかー?」と冗談混じりの横槍もはいったけど(苦笑)、逃げるんじゃなくて、危険な場所から避難するんすけど!

そして9月1日の移住までのカウントダウンが始まった。

8月8日、ブラザーのK2兄と一緒に回ったロンドン、マルタ、スペインと回ったユーロツアー中、最終日ロンドンに着き携帯をつけたら奥様から着信が入ってた。

滅多に着信が入らない奥様から電話がかかってくる時は、何か緊急時があった時だ。すぐかけ直すと予感は的中。東京の奥様の実家に滞在してた謙太朗が鼻血を出したから、僕の実家に避難するとの事らしい。2週間も続いたツアーから、やっとの思いでの帰国も、帰る家に家族がいない事がショックすぎて落ち込んだ。今、現在、被曝での鼻血なのか、引っ掻いての鼻血なのかはまだわからない。落ち着いたらドイツに行ってチェックしてもらおうと思っている。

8月10日にカツ兄とタイ経由約17時間のフライトで帰ってきて、時差ぼけのまま、2日後にはDJが入っていた。そこから9月1日の出発まで忙しい日々が続く事になる。

8月12日Plus Utsunomiya Feat DJ Nobuさん。 3年間、K2兄が宇都宮にテクノを根付かせたいという凄い意気込みで、頑張って作ってきた僕の中では特別なパーティー。宇都宮の超クールなクラブ「Nest」でレギュラーとして続けてこれた。毎度、朝6時頃に終わってはみんなでK2兄の家で溜まり、テクノ話しを昼ぐらいまでやってたのが凄く楽しかった。って、別にテクノ話しばっかりでもなかったけど、とにかく日本の明るい未来を語って、あのダベりから新しく生まれたアイデアはたくさんあった。あの時間なくして、今までPlus Utsunomiyaは続けてこれなかった。最後のPlus Utsunomiya、DJ NobuさんのDJはマジで野性的で渋かった。本当に宇都宮には、たくさんの思い出があった。

次の日の8月13日は殆ど寝ないでRising SunのTone Parkへ。羽田ー千歳のフライトは卓球さんの隣席。例のAKB前田敦子似ネタでイジられ、予定ではここで仮眠をとろうと思っていたが全く寝れなかった…死ぬ程疲れてたけど、笑い狂ったほど凄く楽しかった。

千歳空港ではTakaaki Itohさんと初対面。08年にアムステルダムのAwakeningsというテクノフェスで一緒のラインナップだったけど、風邪が酷くて早々と帰宅したので会えなかった。

37.jpg

Tone Parkの会場に着いた。昨年は悔しい思いをして突如参加できなくなったので、今年は絶対盛上げてやるー!と意気込んだ。プレイは、うまく盛り上がってくれて、かなり楽しくプレイできた。野外で凄く気持ち良かった。

Risingが終わってからは、前日寝てないせいかもうクタクタで、声を出して寝てたほど疲れきっていた。そして起きてバスで千歳に向かい、空港内の寿司屋で卓球さん、Tasaka君、タカアキさんとおはようビール。出発10分前までノンビリしてたら、アナウンスで呼び出し食らう程、ふらふらでダッシュで搭乗口まで向うオッサン達。飛行機に乗り込んだら、左にまたも卓球さん、右に瀧さん…電気グルーヴに挟まれた。

38.jpg

次の日の8月14日の夜に車で実家に戻った。静岡は磐田に盆休みで帰省してたクルーのミツが急遽「しんさん、絶対疲れてるから僕が運転していきますよ!」と電話をくれた。静岡の遠州豊田で落ち合って、そこから2時間づつの交代で深夜に実家の神戸に着いた。ミツは一泊だけしてって、次の日の夜には深夜バスで東京に戻って行った。ミツ曰く「神戸ー東京間の深夜バスは、磐田ー東京間の新幹線よりも安くつくので助かったです」との事。1人での運転は凄く不安であったので、本当に助かった。何かある時、いつもミツが助けてくれた。

8月17日、大阪の串カツ屋で両親、2番目のお姉ちゃんと最後の食事をした。父親と口論。やはり何も生活の保障がないマルタで生きてく事にとても不安があったのだろう。ましてや謙太朗がいる。しかし、僕達は放射能が舞う日本からとにかく出たかった。苦しかった。先行きはどうなるかわからない。
けど、僕にはマルタやスペインに仲間がいてDJという職業もある。7年間もっと無茶苦茶だった上海で生きてこれた。だから、住みたいと強く望む土地に行けば新たな出会いがあり、自分次第でなんとかなるんだと強くコンフィデンスを持って生きてきた。今はこんな日本である。だからこそ、子供を連れ出す息子を認め心強く応援して欲しかった。今は褒められても、怒られても、笑っても、泣いても、原発は収束しない。だからこそ、新しい人生をリスタートする事が必要だ。その勇気と覚悟だけでも認めて欲しかった。父親とは気分悪く悲しい別れ方で僕達は大阪を後にした。最後の最後に寂しかった。

8月19日の金曜日は大阪でのギグ。先ほども名前を出したEnergy Daiが主宰するとても元気なテクノパーティー。本当に楽しくプレイできた。そして凄くびっくりしたのが、大阪の人が放射能に対する考えや知識を凄くしっかり持っていた事。正直、東京や関東では放射能はタブー化され、口に出してはいけないような雰囲気が出ている。とても危険な状況なのに、何も口にせず平然と生活をしている姿が見受けられる、異常な光景だった。パーティー終了後、Dai君の家に行き、放射能に対しじっくり語れた事は、同じ日本の中で凄く心強かった。帰り、曇りで今にも雨が降りそうな朝、実家に戻り、寝て起きたら家を出る。僕は、車を運転しながら、3.11から目の当たりにした狂った出来事を含め、悲しみを全て吐き出すかの様に大声を出して泣いた。

8月20日、その夜には静岡のJAKATAでDJが入ってたので午前13時には家を出発する事に。母親との別れ。朝にたくさん泣いたけど、それでも泣こうと思えば簡単に泣ける。できれば一緒に行って欲しい。マザコンではないとは思うが、苦労してきた母親に僕に尽くしてくれた分の2倍、3倍は親孝行をしたい気持ちはずっと持っている。こんな形でお別れをしないといけないなんて、全くもって本意ではない。悔しくて悲しくて本当に辛かった。しかし謙太朗を守りたいから、今は、この道を選ぶしかない。子供が被爆して弱っていく姿なんて絶対に見たくない。それ以上にお腹を痛め、大変な苦労をした奥さんが、その姿を見て苦しむ姿なんて想像しただけでも見たくない。だから、悲しくても辛くても今は日本から出るしかないのだ。


大雨の降る中、母親とお別れをした。


「またすぐ会えるから」とその言葉しか見つからず、母親に涙をこらえ声を絞り出して言った。
「すぐに会えるなんて思ったらあかんよ。」と母親はこっちを見ずに言った。
新しい国で生活するのは並大抵の努力がないとできない。すぐに会えるなんて、なんかあったら尻尾巻いて帰国すればいいや…なんて思わず、海外で奥さんと子供を食べさせていくのは相当の覚悟がないと無理だと言うメッセージだと受け取った。

普段は見送って手を振り続けてくれる姿をバックミラーで見ていたが、今回はバックミラーすら見れない。運転席の窓を開け、見てるか見てないかは関係なく、僕は右手を出して大きく手を振った。
「老後は一緒に綺麗な地中海に浮かぶ島、マルタで住もう。絶対に迎えに来るから。」
僕は心に誓って、神戸を後にした。

静岡に到着したのは22時頃だった。途中、京都の鞍馬山にあるパワースポット「鞍馬寺」に寄ったら
思った以上に階段がキツク、ヘトヘトになってしまった…

39.jpg

静岡のJAKATAは言わずとしれたこちらもKatsuさんが運営するナイスな箱。A.Mochiと一緒にブッキングしてもらい、美味しい料理を食べさせてもらって、楽しくプレイさせてもらった。4年振りに訪れた静岡でプレイできたのは、本当に嬉しかった。

8月25日僕達の家を借りてくれる友達ユキマサがやってきた。

8月26日WIRE11前日、庭の雑草抜きと植木を切った。行く前にどうしても、しばらくお別れになるマイホームを綺麗にしていきたかった。ユキマサと一緒に汗だくになった。シャワーを浴びた後のカレーは無茶苦茶美味しかった。

8月27日WIRE11当日。13時に中華街でクルーと待ち合わせ。みんなで最後に僕の大好きな店で中華を食べた。15:30に横浜アリーナ到着。16:00サウンドチェック。そして18:00オープン。

一曲目はBuck TickのJupiter、SivermoonのアンビエントのRemixを流した。これはタイムテーブルが決まる前に、おそらくアリーナのオープニングになる事を想定して、一曲目で絶対使おうと数ヶ月前からメモしていたトラックだ。02年にアリーナのオープニングでDJさせてもらい、久々のWIREと言う事でアリーナのオープニングでやりたいって、ずっとクルーには言ってたので、その時間帯に決まった時はガッツポーズをしたのだ。

02年の時はまだ26歳だったし、余りにも緊張してフロアーなんて見れなかったけど、もう今は34歳でそこそこの経験は積んできた。じっくりフロアーを見る事ができ、あっと言う間の80分だった。楽しくて、心から幸せで…そして…残念にも日本をベースとした最後のDJだった。

そしてみんなと会うのもこれが最後だと肩を落としてLen Fakiのプレイ中にアリーナを後にした。

12.jpg

8月28日は家の前の公園で毎年恒例の花火大会だった。謙太朗はこの日から風邪で熱があがってきた。
コウヘイとセイナが泊まりに来てみんなで花火鑑賞をした。家のテラスと窓から見えた花火は、一生忘れられない程の特別な花火だった。花火が上がる度に街がどよめき歓声が聞こえた。
この街の人々はポジティブに生きてるんだと感じた。

13.jpg

8月29日 やっと重い腰を上げて国際免許を取りに行った。思ったよりも早く簡単に取れた。マルタに行った次の日に早速レンタカーを借りて、奥様と謙太朗にマルタの素敵な場所に連れていく事に胸高めいた。やっと普通の生活ができる。水も空気も雨も野菜も牛乳も肉も…全く放射能を気にしない生活を送る事ができる。出発が近づくに連れ、「最後」となる事が増えていった。夕方にはクルーのミツが来てくれた。一緒にお庭の掃除や家の片付けを手伝ってくれた。謙太朗は一向に熱が下がらない。奥様とフライトのキャンセルについて口論が始まる。

8月30日 この日も片付け等。銀行口座の確認等。出発が近づいてくる。謙太朗は熱は一向に下がらなかった。いよいよキャンセルを視野に動き始めた。僕は9月2日にスペインでギグがあるから、絶対に行かなくちゃいけなかったので、本当にどうしたら良いのかわからなくなった。パニクった。奥様とその日も口論。

夜、ソデッチから電話(DJ Sodeyama)。Salmon君が逝ったと訃報が届く。出発2日前。続々と回りの日本人が死んでいく。震災が直接には関係していないだろうが、その後の日本政府に対する信用、僕と同じようにキャパシティーがなくなって死を選ぶ人が増えていると思う。今はそういう世の中。僕には幸い奥さんと謙太朗がいる。だから頑張って守っていく使命がまだある。もしいなければ…同じ様な道を選んでいたもかもしれない… Salmon君の生前最後にリリースしたトラック「Soma」は、Plus Recordのチャリティーコンピだった。

ありがとう、Salmon君。

48.jpg

8月31日 最後の夜。謙太朗、少しだけ熱が下がり始めた。でも、鼻水が止まらない…出発は明日。果たして……ミツが気を使ってくれてか僕の家に住む事になったユキマサを東京に連れてってくれた。最後の夜は家族水入らずで過ごしてくれ的な粋な計らい。謙太朗を早々に寝かしつけ、奥様と荷造り、片付けにはいる。いざ掃除を始めると、やる事が多すぎて気が遠くなる一方、いろいろな思い出も蘇り、涙が出そうになりながらも、午前2時頃にやっと片付けも落ち着いて、寝床についた。寝る前にブラザーK2兄に電話して、お互い健闘を讃え合った。いろんな人から着信があったけどあえて取る事はしなかった。みんなと話す事は、別れの言葉だけだから。悲しくなるだけだし。

同じくロンドンに住んでた2個上の姉から「シンならできる。実際、もうマルタに行くやん。それだけでも凄い。頑張れ」ってメールが入ってた。

9月01日ついに出発の朝。謙太朗の熱が37.6℃まで下がった。なんとかギリギリ飛行機に乗せれる熱だ。とにかく空港に向う事を決めた。8時に友人のジョン君とミツが迎えに来てくれた。もう荷物がバタバタで汗だくになる程の忙しさ。子供を連れての移動なんてした事ないし、予想以上に荷物がふくれあがった。予定を10分程越して8時40分になんとか出発した。雨が降る中、ジョン君が飛ばしてくれて、なんとか9時40分に到着。荷物を降ろして空港に入ろうとすると、K2兄が手を挙げこっちに歩いて来た。無茶苦茶泣きそうになった。わざわざ宇都宮からPLUS宇都宮クルーの下村君と2人で朝一で来てくれた。空港の中に入るとずっと一緒だったPLUSクルーが仕事を休んでまで見送りにきてくれてた。

謙太朗は元気そうなので、なんとかチェックイン。海外旅行保険も済ませ、みんなで喫茶店に行ったのは10時5分ぐらいだった。奥様は携帯を解約しにいった。出発が11時35分だから10時40分には出国手続きに向う為、みんなと過ごせるのは、たった35分ぐらいしかなかった。

10時30分頃に奥様が解約を済ませ喫茶店に来た。と同時に出国ゲートに向った。昨晩は準備で寝てないせいか、はたまた、行く事を躊躇しているのか、なんだか足取りは疲れてた。出国ゲートの手荷物検査場は並ぶ程混んでた。それも手伝ってか、1人1人と簡単に話す事ができた。

別れの握手をしてると涙が溢れ出てきた。みんなで集まってパーティーばっかしてた大切な仲間達。
このゲートをくぐってしまえば…もう、みんなとは簡単に会えなくなる。気軽に会って飯を食べたり、笑う事もない。人生と日常が大きく変わる。父親として1人で新たな地で不安に負けず、大きな一歩を踏み出し家族を守っていく、何か不幸な事が起こってもすぐには帰ってこられなくなり、今までできたたくさんの事がもう簡単にはできなくなる...

そして、両親や家族、友達、仕事関係者、クラブ、家、文化、故郷、日本…… との別れ…

14.jpg

悲しすぎて、みんなを振り返らず、荷物検査場に歩いていった。そこをくぐる手前1m、少しだけ振り返って見てみたら、まだみんなが見てた。

僕は両脇にあるガラズ張りの見送りポイントの左側に行く様に指を向けた。

そして、荷物検査場をくぐった…

もう出れない。もう後戻りはできない。覚悟と勇気しかない。前に進むしかない。本気で怖かった。暮していけるのかわからない。けど、やるしかない。行くしかない。

荷物チェックも終わって、みんながいる左側にあるエレベーターに向った。声は聞こえないのはわかってたけど「ありがとう」と大声で言った。たくさん腕を振った。本当に悲しかった。もう一度戻って手を振りたかっけど…僕達はそのまま力強く前に歩いた。

15.jpg

パスポートコントロールを通過して、ゲートに向い、歩きながら着信がはいっていた松本に住む親友シマちゃんに電話した。もうすぐパパになるシマちゃんと子育ての健闘を讃え合った。その後、母親に電話した。すぐに電話に出た。待ってくれてたんだと思う。言いたい事はたくさんあったはずなのに、肝心な事は全く言えず、さよならだけを伝えた。

搭乗口についた。躊躇せず飛行機に乗り込んだ。最後に見送りに来てくれたみんなに機内の様子の写真を添付してメールを送った。家族にも送った。

57.jpg

扉が閉まり出発した。滑走路に向う。飛べば12時間飛行機から降りられない。戻れない。飛んだ。




そして…日本を出た。




58.jpg



家族3人では初めての飛行機。もっとハワイとかバリとか沖縄とかウキウキした気分で飛行機に乗りたかった。それがこういう形になるなんて。

12時間後、謙太朗のヤンチャぶりに苦闘したけども、なんとか乗り越えロンドンヒースロー空港に到着した。UK BORDERを越えた後、タクシーに乗り込み、謙太朗の熱を測った。36.3分に下がってた。元気ピンピンだ。


そして僕達のヨーロッパ生活が始まった。


08年にロンドンアイで結婚式を挙げて、今は子供を連れてその場所にいる。疲れてるはずの謙太朗、
ずっと元気にタクシーからロンドンの街並を観てた。バッキンガムを通り過ぎた時、謙太朗が身を乗り出した。ロンドン市内の忙しい渋滞を抜け、Canada Waterに高校の同級生ヒデが迎えに来てくれた。
そのまま同級生のフクちゃんの家、North Greenwichに向った。5日間程お世話になる予定だ。

その週の土曜日、結婚式の後の食事会に利用した、高校時代からの行きつけのSOHOにある中華料理屋に行った。自然と空いてた一席は、16歳の頃に僕が初めて行った時と、式の後の食事会に利用した入り口右手前2番目の同じテーブル。今はそこに謙太朗と一緒に座っている。

16.jpg

そして今はもうMALTA。僕達の人生において一生この日を忘れる事はない程、大きな出来事になる。
いつか謙太朗が大きくなったら、何故、僕達がマルタに住んでいるのか伝える日が来るでしょう。震災からきた原子力発電所の事故が理由により、僕達はそれぞれの家族と別れ、母国を出た事実。歴史に残る日本の悲しい出来事。

本当に辛かったし、今もこの先もずっと辛い。
最低でも、福島原発が収束する十数年もの間は毎日が辛い想いだと思う。 
でも、悲しんでばかりじゃいられない。

今後、いくつもの多難が待ち受けていると思う。楽に暮せていける国なんかない。本当にこれ以上に頑張って生きていかないと。

いつか母国日本が安全に戻り、この度の震災での失態を教訓に生かし、今以上により良い政治、国となり、放射能が収束した後、無事に帰国できるのを夢見て、僕達はしばらく欧州で生きてく事にする。

なんでこんな事になってしまったんだ…
心から悲しい。本当に悲しい。

もう一度、3.11の前に戻って欲しい。お願いだから戻って欲しい。

そして…

もっとたくさん、謙太朗を僕達の親に抱かせてあげたかった。




最後に、日本でお世話になった、たくさんの方々、本当にありがとうございました。本来は直接会ってお礼を言いたかったのですが、状況が状況だけに、こういう形となってしまい申し訳ありません。

放射能が落ち着いた頃、みなさんでまたより良い日本を創れたらと思います。僕はそれまでMALTAやヨーロッパで、日本の役に立てる事をしていきます。その辺はTwitterやFacebookで度々報告します。

きっとマルタには、想像すらできない面白い人生が待っています。

みなさんも、日本に住んでく事が嫌になれば、海外へ逃げて下さい。海外に出る勇気がなければ西へ逃げて下さい。きっとみなさん次第でなんとか生きていけます。今ある環境、欲を捨てればいいだけです。環境を捨てると言うのは、家族、友達、仕事仲間を捨てると言う意味ではありません。1人で心細いなら友達を誘ってみてはいかがでしょうか。出会いは無限です。世界にはいろんな人間がいます。優しく助けてくれる人達がたくさんいます。日本人の知らないアドバイスをくれます。日本の価値観は日本だけのものであって、世界の中心ではありません。もちろん日本には世界が賞賛する素晴らしい文化、風習があります。しかし、世界はとてつもなく広いのです。故郷は愛らしく大切なものでしょう。それは僕達も同じです。でも、残念ながらもう住めないのです。

お金がなくて動けない人もいると思います。しかし、今は敷金や礼金の必要のない街だってあります。仕事を紹介もしてくれます。実際、僕達は貯金なんて殆どありません。しかし、勇気を持って、覚悟を持って、自分達を信じて、大きな一歩を踏み出しました。とても怖かったです。本当に寂しかったです。しかし、放射能が舞う関東に住むよりも、嘘しかつかない政府の下で生きていくよりも、未来はとても明るいです。

今一度、小さい頃からの夢、ずっとやりたかった事、望む生き方を思い出して下さい。そしてそれに向って生きて下さい。今、こういう状況だからこそ、新しい自分に進んで行けると思います。今の日本はリセットの時期だと思います。僕は震災を体験して新しい夢を見つけました。そしてマルタに移住し、突然に同じ夢を持つ人と出会い、その夢に向っていける幸せを見つけました。自分を強く想い、強く信じ、家族、仲間、人を大切にすれば、必ずみなさんが描いた夢を叶えてくれる人達が目の前に現れます。それは相手も同じなのです。

津波は、たくさんの人間を、家を、土地を、家財道具を、車を、財産を一瞬にして奪い取りました。
モノなんてものは所詮そんなものなのです。モノはあってないようなものなのです。みなさんが子供の頃から今もずっと大切にしているものは、家族や友人がくれた心のこもったプレゼントだけではないでしょうか。

人間にとって何を大切にすべきか。それは家族であり、仲間であり、そして、子供達の未来なのです。

17.jpg

みなさん、しばしお元気で。次の形で会いましょう。

66.jpg


mods.jpg



Plus Cat.jpg



nice!(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

トラックバック 1

New release from Plu..Shin Nishimura New r.. ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。